楽しみとは与えられるもの
- 3 分で読めます - 1192 文字自分の頭で楽しもうとしても楽しめない
私たちはいつも自分の楽しみを追い求めてしまいがちです. 世の中には時間を潰せる娯楽はいくらでもありますし, 中には人生を破滅させてしまうような快楽享楽も山のように存在しています.
人生をダメにするとまでは行かずとも,時間を無駄に使ってしまいがちな私たちですが, 自分の頭で楽しみを見出そうとしても,実のところ,あんまり楽しめなかったりするものです. 遊び慣れたら少しは違うのかもしれませんが, 例えばある日美しい景色のあると噂の場所に旅行にいきたいと思い,後日実際に足を運んでみても, 行ってみたら大したことがなく,期待していた以上の喜びを得ることはできなかったというような経験は誰にでもあるはずです.
私も先日そのような体験をしました.とある,菜の花が綺麗と噂の場所があり, 前々から行きたいと思っていた所つい先日機会を得たので行ってみたのですが, 思っていたよりも綺麗というわけではなく,あまり大した感動を得ることもなく, ある意味で拍子抜けしてしまったのです.
それは,私が事前によく調べなかったからというよりも,私の頭だけで, 私の楽しめるように計画するという,愚かなことをしてしまったからです.
なぜそう言えるかと言いますと,私たちは,RAPTさんに教わり,主なる神様を愛し, 主なる神様から祝福として楽しみを与えていただくという経験を通じて, 祝福による楽しみと,自分の頭からきた楽しみとの違いをはっきりと理解しているからです.
私たちがRAPTさんの教えに従って,確かに実在しておられる神である方から受ける祝福に, 霊的な祝福というものがあります.これは,言ってみれば,この世のどの人間よりも大きな愛をお持ちでいらっしゃる 神様の愛を自分の身に受け,その愛によって喜び踊って毎日を生きられるようになるという恵みの祝福であるのですが,
RAPT有料記事128(2016年12月12日)豊かに聖霊を受けるための基本的な信仰の4つの柱。
この祝福をきちんと毎日受けた上で生きるかどうかが,何をするにしても重要なのです. 神様の愛をきちんと毎日受けた上で何か事を行うなら,その事を通じて喜びと感謝が溢れ, 何をしていても楽しいのですが,この祝福を毎日きちんと受けずに何か事を行なっても, その事から恵みも力も受けられないという体験を,信仰を持つと頻繁にするようになるのです.
行ってみれば,この神様からくる愛を受けたならば,それこそ近所の公園に行っても喜びに溢れていますが, 神様の愛をきちんと受けずに生きるならば,絶景と名高い場所に行っても楽しくないのです. 神様の愛に勝る喜びは,本当にありません.この愛こそが,全て人間の追い求めるべき愛なのです.
人間の愛でなく,神様の愛こそが人間を救うという体験を,皆さんにも是非していただきたい. その方法を,RAPTさんは述べ伝えてくださっているのです.